あけましておめでとうございます!
昨年の記事がほぼ書けてないので、また書いていこうと思いますがまずは今年初の考古学サークルならの記事からです!
2024年1月はじめの考古学サークルならは、桜井市の泊瀬谷を巡りました!
スタートは大和朝倉駅です。
この日はあいにくの曇りで寒さも厳しく、駅から出るのも辛い状態でしたが、駅の北口から降りて行き、まずは泊瀬街道の常夜灯へ!
泊瀬街道と宇陀が辻(忍坂街道)、伊勢本街道、横大路など重要な場所へ続くための道の交差点にある常夜灯なのですが、この常夜灯何かおかしくないですか?(私は気づきませんでしたw)
真ん中に竿がないらしいです。しかも石も上下逆さになってたりもしてます。理由はちょっとわからないので、ご存じの方おられればコメントやX(旧Twitter)のならかんまでぜひご連絡ください!
泊瀬街道と横大路へ続く道の交差点で慈恩寺追分の辻というところです。道標もあるのですが真ん中で割れちゃってます..
高野山や吉野、三輪山へ行く街道ぞいの辻がここになります。
先ほどの慈恩寺追分の辻から初瀬谷を越えていくのですが、泊瀬の谷は大きい口のところが大体350mくらいで、長谷寺に向かってしぼんでいく感じです。長谷寺までは4.5kmくらいになります。
先生にも聞いたのですが、初瀬や泊瀬、長谷と読み方が色々なんですが、何が正しいんでしょうね?
谷の両サイドは三輪山と外鎌山(朝倉台の住宅地の後ろ)があり、高い山の間になるのが初瀬谷と言われてます。奈良県内では特徴的な地形となっています。
初瀬谷を越えて三輪山の麓にあるのが、玉列神社です。この周辺からは朝倉宮の瓦などが出土されていますが、その頃の遺構があったのかどうかも不明です。
古事記では長谷朝倉宮、日本書紀では泊瀬朝倉宮と記載があり、この辺りの可能性があるという話もあり、玉列神社は朝倉宮の神宮寺にあたるのではないかとも言われています。
阿弥陀如来坐像もおられるのですが、公開はされておらずのぞいてみましたが綺麗には見えませんでした。
この後、雄略天皇の宮があったのではないかという、脇本遺跡に向かいます。
ここは発掘調査が行われて、大きな建物跡が見つかり文献とも合わせてみると、雄略天皇の宮があった場所ではないかと言われている場所です。ただ発掘調査をその後も行ったが有力な結果は出ておらず、まだ確定はしていない状態です。
また、遺跡の反対側には古墳時代の堀の跡が見つかったそうです。堀の跡の写真はこちら
大きい石囲いの溝のような堀の跡が見つかったのですが、謎が多い遺構です。堀は古墳の葺石や、豪族の居館に石囲いの溝は出てきてるのですが、奈良でも御所市にある極楽寺遺跡や天理市の布留遺跡でも出土されています。
でも、この遺構は南北が60-70m, 東西120mで深さは2mくらいということが調査でわかっています。もし水を張っていたものであれば水性堆積層が見つかるはずですが、そのようなものは見つかっておらず、空堀のようなものだったそうです。堀というのは交通の妨げになるものなので、初瀬街道沿いにあるということも不思議であり、伊賀へ抜ける大事な街道で、外鎌山側には初瀬川もあることから、わざと堀を作って交通の妨げとして大きな勢力が通りづらくする堀ではないかと言われています。またこの以降は5世紀前半の遺構ということです。
脇本遺跡では掘立柱の遺構など多数見つかっており、発掘調査時に長谷朝倉宮の跡ではないかと言われています。脇本遺跡をまとめると
- 掘立柱遺構が多数出土した
- 大きい堀の遺構が発掘された
- 初瀬街道という東国に抜ける重要な街道があった
ということから、とても大事な場所であり雄略天皇の宮である可能性が高いと言われています。また、埼玉の稲荷山古墳出土の大刀銘は、ワカタケルが「斯鬼(しき)宮」にいたと書かれており、ワカタケルは雄略天皇のことで、しきとは磯城地域のことで、脇本遺跡の周辺を指すため、この辺りが有力ではないかと言われています。
また、先生が言ってた話で気になったのは、実は初瀬街道は重要な街道ではなく、宇陀が辻から忍阪街道で宇陀に抜けるルートが主要街道で、この辺りは閉ざされた場所ではなかったのではないかというお話もあるそうです。
脇本遺跡から徒歩すぐに春日神社があります。こちらも雄略天皇の宮があった場所と言われている場所になります。この辺りは至るところに宮だったと言われる場所があるみたいです。
こちらは朝倉小学校ですが、ここでも発掘調査が行われており遺構が見つかっているそうです。
脇本遺跡では雄略天皇の宮が見つかった層の1階層上で泊瀬斎宮の遺構も見つかっています。見つかったのは、柱穴14個で柱の直径は35~45センチとみられていて、東西に長い建物か柵の柱列だと言われています。この泊瀬斎宮は大来皇女が伊勢神宮へ行く前の1年間、身を清めるために滞在した場所と言われています。もしかしたらこの川で禊をしてたかもしれないですね。
続いてきたのは、白山神社です。ここも雄略天皇の朝倉宮があったと言われてますが、脇本遺跡が見つかってからはここがそうだという話は少ないそうです。
また、先生が、前を走ってる国道165号線には軽便鉄道長谷線が走ってたというご説明から、奈良の鉄道の話があったのですが、鉄道の話全く分からない笑
ということで鉄道の話は割愛させていただきます!次は流地蔵へ向かいました。
流地蔵は長谷寺の門前に桜の馬場という場所があり、洪水があった時にそこから初瀬川を流れていったのではないかと言われているお地蔵さんです。お地蔵さんを見ると確かに腰から下が埋まってました(写真撮り忘れた!)
次は十二柱神社へ向かいました!
こちらは武烈天皇の宮があったと言われる場所です。野見宿禰のお墓がある場所でも有名なところですが、宮があったにしては少し狭いような…でも本当かどうかは謎ですよね〜
次は長谷寺近くにある興喜天満神社へ!
興喜天満神社へ行く前にあるのが下化粧坂です。今は国道が走っておりますが昔はここ下化粧坂と上化粧坂が初瀬街道(伊勢街道)として使われておりました。
この石碑よりくさ餅の方が目に入る場所です!
次は興喜天満神社へ!
途中鳥居からの夕日がとてもキレイでした!
少し上がると興喜寺跡があります。幕末から明治時代に長谷寺の一番偉い人が住む古屋があったそうです。
そしてこの跡もきつい階段を登り興喜天満神社につきます。ここマジできつい階段でした????
鎌倉時代の「長谷寺験記」上巻11話によれば、天慶9年(946)9月20日菅原道真は長谷寺の観音へと上って行き、瀧蔵権現との会話から地主神を譲り受け、与喜山の松の大木の下に鎮座し、「与喜大明神」と名付けられました。「悪しき」心によって罪を犯した菅公(天神)は、悪を断ち善を修めるために最も「良き」地にたどり着き、そして長谷寺と初瀬の町を守護する神となりました。
と説明がある通り、菅原道真が譲り受けたということです。天神社は奈良にも多くありますが日本で最古の天満神社とも言われているそうです。
またその後ろの山は与喜山暖帯林と言われていて、かなり広い面積が指定文化財になってるそうです。天神山にも登れるそうで大体40分〜50分くらいで登れるそうです。
今回は約6kmくらいの距離を歩き、泊瀬谷を回りました。
コメント