3月4日(金)に定例の考古学サークルで西大寺に行ってきました。
みなさん、西大寺といえば駅南口から歩いてすぐのところを思い浮かべますよね?
でも、それ誤診です(ドクターホワイト風)
現在ある西大寺はこの地図の中心に位置してますが、昔はこの地図いっぱいくらい合ったそうです。
そして、地図中心より少し上に「森本ハイツ」と書ている部分に、昔の薬師金堂があったそうです。
それが、この辺
え?どこ?ってなりますが、写真右側に「浄土院」というお寺があるのですが、その土台の石垣は、
薬師金堂の土台だそうです。こんなの普通わからないですよね。ちなみにこの写真の浄土院から左にハイツがあるのですが、そちらには弥勒金堂があったそうです。それ以外にも西大寺駅の北側には食堂院(お坊さんがご飯食べたところ)などあったそうで、かなり広い敷地だそうです。
創建は764年(天平宝字8年)で孝謙太上天皇が発願した寺院で、広さは約31町。薬師金堂、弥勒金堂を初め、四王院、小塔院、食堂院、政所院、正倉院、十一面堂院、西南角院、東南角院により構成されていたそうです。これを見ただけでも広大だったことがわかりますよね。
でも、今は住宅街、畑。発掘はされてないそうなのでもしかしたら畑掘ったらすごい物が発見されるのかも!
そんな歴史を感じつつ、次は西大寺奥院五輪塔に向かいました。西大寺奥の院(法界躰性院)は、称徳天皇により創建されました。平城京東の東大寺に対する形で隆盛を誇ったが、平安時代末には荒廃は進み、鎌倉時代に中輿されました。ここが有名なのは大きい五輪塔!
写真ではわかりづらいですが、とても大きい五輪塔です。
五輪塔横には墓地があって、納骨の建物もあります。今はかなり古く倒壊の危険があるため柵で囲まれていました。
ちょっとお墓で写真撮影は怖いですが、いつまで残ってるかわからないのでパシャリ!
その後、歩いて10分〜15分くらいの喜光寺へ!
喜光寺は、奈良市菅原町にある法相宗の寺院ですが、「行基菩薩伝」によると、その昔は菅原寺と呼ばれ創建は721年(養老5年)に寺史乙丸(てらのふひとおとまろ)の居宅を寺とした由来がある。
748年(天平20年)には聖武天皇が行幸し、その翌年菅原寺東南院で行基が入滅したと言われている。
こちらは室町時代に再建された本堂。寺の周囲は住宅や道路の開発が進められ、往時の伽藍を留める遺構は認められていない。菅原寺の発掘調査は1969年に本堂周辺及び本堂基壇南方の道路建設予定地で行われ、全身金堂と門と見られる遺構が見つかっています。
そんな菅原寺近くには、日本最古の天満宮菅原天満宮もあります。
ちょうど時期的に桃が見頃で綺麗でした。でも今回は菅原天満宮は素通りで、その先にある埴輪窯跡群に向かいます。でも菅原天満宮も見たかった!
ここは、1500年前の埴輪を焼いた窯跡が平成2年の発掘調査で6基発見されました。
斜面をトンネル状に掘り抜いた登り窯と呼ばれる構造です。釜の焚き口で火を炊くと、熱がトンネル内を上昇して埴輪を焼き上げるようになっています。古来から土師氏は、葬儀に関連した職務をしており、陵墓の築造や埴輪づくりに関わっていたと言われています。
「続日本紀」には、土師氏が居住する地名を採って菅原と名乗ることを天皇に認めてもらったという期日があります。この菅原の地で埴輪窯が見つかったことは、土師氏が菅原で埴輪づくりをおこなっていたことを示しています。菅原の地は、日本書紀などの記事と遺跡とが結びつく、古代の有力氏族である土師氏の実態を知る上で、重要な地域だと思います。
ここ菅原の地で1500年前の風景に思いを馳せながら、次は宝来山古墳へ向かいました。
ここは垂仁天皇菅原伏見東陵で、佐紀盾列古墳群が主として奈良山丘陵南縁の中位段丘上に展開するのに対して、当墳周辺の古墳飲みがそれより西に少し距離を置いて築造されています。
墳丘は3段築成で前方部を南に向けている。全長230m以上、後円部直径130m以上、前方部幅125m以上の巨大前方後円墳です。外表施設として埴輪があるらしいですが、詳細は不明な点が多いそうです。南東側の一部が後世に拡張されており、ここに田道間守墓に治定されている中島があリます。
近くには田道間守が常世の国から持ち帰ったという非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)の再生プロジェクトをされてました。
このあと、西ノ京駅近くにある墨の資料館によって、墨の展示を見て、そのあと九条駅近くで平城京の南にある西市という場所まで行ったのですが、写真撮るの忘れた!!
ということで、今回は土師氏を先祖とする菅原氏の話など、知ってる内容が多くて楽しい活動でした!
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